ハノイは、ベトナムの首都であり、アルファベットでは「Ha Noi」と書きます。ベトナム北部に流れるホン川の西岸に位置し、南シナ海から約85マイル(140 km)内陸にあり、自治体は省(thanh pho)ごとに分かれており、中央政府によって管理されています。面積は1,205平方マイル(3,120㎢)で、人口(1999年)市、1,523,936人 地域.,5,053,654人;(2009年)市、2,316,722人; 地域、6,451,909;(2014年)都市、3,292,000人。

歴史

現在のハノイ周辺の地域は先史時代にできたとされ、何回も中国から支配され、中国の政治の中心地とし選ばれました。1010年に、ベトナムの李王朝(1009年-1225年)の初代皇帝であるLy Thai Toが都をThang Long(「昇る龍」という意味;現在のハノイ)に遷都しました。Thang Longは1802年まで長きにわたりベトナムの主要な首都でした。最後のベトナム王であるNguyen(1802年–1945年)が首都をHueに移転しました。
ハノイ市は今まで何度も名前が変わっています。後期Le王朝(1428年―1787年)にはDong Kinhという名前でしたが、ヨーロッパ人にはTonquinという名前で呼ばれるようになりました。フランス植民地時代(1883年ー1945年) Tonquinは、地域全体のことを指していました。1831年に、Nguyen皇帝によってハノイ(「2つの川の間」という意味)と改名されました。

フランスの支配下で、ハノイは再び重要な行政の中心地になりました1902年から1953年まで、ハノイはフランス領インドシナの首都でした。フランスが影響力を拡大しようとした中国南部にTonquinが近かったことと、鉱物資源が豊富にあったためです。また、日本占領下(1940年〜1945年)においても、行政の中心地でした。

1945年8月、日本の降伏に続いて、ホーチミンの指導の下で、ベトナムはハノイを首都としてベトナム民主共和国が成立しました。しかし、フランスは1946年から1954年5月7日にDien Bien Phuで敗北するまで、ハノイに対して、自国の領土であると主張していましたが、フランスが敗北し、その後すぐに、ハノイはベトナム民主共和国(北ベトナム)の首都になりました。

ベトナム戦争では1965年、1968年、1972年に米国がハノイを爆撃し、ベトナムは大きな被害を受けました。 1975年4月30日に南ベトナムが崩壊した後、北ベトナムはベトナム全土の支配を拡大しました。1976年7月2日、ベトナム社会主義共和国の成立が宣言され、ハノイを首都としました。ハノイでは、遷都されてから1000年になることを記念する行事が2010年10月10日に行われました。

現代的な都市

ハノイは主に商業を中心としていましたが、1954年以来、産業と農業の中心地に変わりました。製造業では、工作機械、発電機、モーター、合板、織物、化学薬品、およびマッチなどを生産しています。米、果物と野菜、穀物、商業作物がその周辺地域で栽培されています。

またハノイは交通の中枢を担っています。ハノイとベトナムの他の主要都市と結ぶように道路が走り、鉄道があるのでHaiphong港へ、中国雲南省の昆明やホーチミン市(サイゴン)へもアクセスが便利です。小さな外航船でホン川を通ってハノイに航行でき、小さな川がたくさんあるので、首都からベトナム北部のあらゆる地域に移動できます。ハノイには空港が2つあります。

ハノイの歴史的な記念碑や宮殿の多くは、外国からの侵略や内戦によって破壊されましたが、残っているものもあります。その中にHoan Kiem湖(「返還された剣の湖」)があります。紀元前3世紀のCo Loa城、 孔子をお祀りしている文廟(1070年)、Mot Cotパゴダ(一柱寺、1049年); そして、Trun Sistersの寺(1142年)なども有名です。さらに、11世紀に建てられたThang Long王城遺跡は、2010年にユネスコの世界遺産に指定されました。また、ハノイ大学、革命博物館、軍事歴史博物館、国立博物館は重要な文化施設です。